火に行く彼女


 ―――夢の中で、私はこれが夢だということを知っている。
 私は丘の上から町並みを見下ろしている。立ち並ぶ家々。その一角を火が舐めている。燃え盛る家のうちの一軒が弟の新司の家だ。火は見る間に勢いを増し、丘の上へとその手を伸ばそうとしている。周囲の人々は逃げ惑い、争って火とは逆の方角―――西へと向かって走っていく。その人々の渦の中、私は行くでも戻るでもなく、ただ立ち尽くし、火に包まれた町を見下ろしていた。
 不意にその人の渦から白い人影が離れた。美津子。私の弟の妻だ。西へと逃げる人々とは逆に、一人悠然と東の燃える街へ向かって丘を下っていこうとする。

 美津子。

 炎のぱちぱちという音の中、不思議と私の言葉ははっきりと響いた。これは夢だから。そう、不思議はないのだ。夢を見ている私がそう一人納得する間に、もう一度夢の中の私は繰り返す。美津子。無言のまま、ゆっくりと女は振り向いた。 逃げる人々の黒い服。ますます燃え広がる炎の赤。その景色の中で、彼女の着ている服の白が映えていた。

 どこへ行く。死にたいのか。

 女の白い顔の中で、そこだけ赤い唇がゆっくりと開く。やはりその声は、炎や人々のあげる叫び声の中でも、はっきりと私に彼女の意思を伝えた――――残酷な言葉。

 別に。死にたいわけではないわ。でも西には貴方の家があるから。そちらへは行きたくないの。私は私の家に帰るだけのこと。

 自分の家だと。あの火の中へか。ゆっくりと白い手があがり、細い指が火元と思しき辺りを指すのを見ながら、私は叫び出したいような思いに駆られていた。言うべき言葉を見つけられないまま、やはり立ち尽くすことしかできない私に背を向け、女はまた道を下り始めた。丘の上へとゆっくりと手を伸ばしてきた炎が、女の白いスカートの裾に燃え移ろうとしている。


―――そこで目が覚めた。
 変な夢を見たものだ。もっとも原因は判っている。閉店間際に寄った店のキャッシャーの下の文庫本。内田が「お客様の忘れ物です」と言っていたものだ。もう随分前に死んだ著名な小説家の短編集。ぱらぱらとめくった時に目についた、夢についての話。わずか二頁しかないその掌編のタイトルは「火に行く彼女」というものだった。その話をそのままなぞるような内容の夢。我ながら自分の単純さに呆れる思いがする。私は溜息をつき、ベッドから降りた。
 
 夜十一時過ぎ。店に寄ってみると見慣れた後姿がカウンターに着いているのが見えた。かなり酔っているらしい。背に流した長い髪が、躰がぐらりと傾くたびに大きく揺れていた。空のグラスをかざす手つきも危なっかしい。
「ねぇ、お代わりちょうだいってば」
 そろそろ呂律もまわらなくなってきたと見える。少し舌っ足らずな声。ふらふらと揺れる手に応えてグラスに酒を注いでもいいものか、カウンターの中のバーテンが困っている。私が来たことに気付いてほっとしたような顔をした彼に「もういい」と声をかけ、美津子の手からグラスをとりあげる。
「あら、義兄さん。このバーテンさんの代わりに貴方がお酒を注いでくれるってわけ?」
「飲み過ぎだ。その程度にしておけ」
「なによ。いいじゃない返して」
 露骨に機嫌を損ねたような顔で、私の手からグラスをもぎとる。敢えて逆らうことはしなかった。酔っ払いというのは案外馬鹿にしたものではなく、普段ではあり得ないような力を出したりする。だいたい彼女には、以前にそれでひとつグラスを割られているのだ。グラスを取り返した彼女は、「ねぇ、バーテンさんてばぁ。お代わり」とグラスの底でカウンターをたんたんと叩いている―――このままでは返したところでグラスの末路は同じかもしれない。私が大きく溜息をついたところで、まるでそれが合図だったかのように、不意に彼女の躰が大きく傾いだ。そのままカウンターに倒れ込みそうになるのを支えてやると、ほとんど眠り込む寸前だった。手からグラスを外し、首を痛めたりしないよう、できるだけそっとカウンターにもたれかけさせてやった。しょうがない、新司を呼ぶか。あまり会いたい相手でもなかったが、美津子がこの調子ではしょうがない。今夜はもう家に帰っているだろうかと思いながら、私は奥の控え室へと電話をかけに向かった。

 幸い、今夜の弟の帰宅は早かったらしい。状況を伝えた私に「すぐ迎えにいくから」それだけで電話は切れた。兄弟らしい会話を望むわけではないが、そっけないことこの上ない。―――もっとも今更そんな会話をしようと思っても、私もとうにやり方を忘れてしまったが。
 店に戻ってみると、美津子は目を覚ましたらしい。かかげた右手にはまたショットグラス。バーテンが根負けして新しいのを出したのかと思ったが、彼女の左隣に座っている男に気付いて事情が判った。キドニー。彼の前にはコースターだけが残されていて、グラスはない。おおかた、あいつのを美津子が無理にとりあげたというところだろう。
「なによ、宇野さん。あんまり美味しくないわ―――もっと甘いのないの」
「そう言われても、俺はいつもこれなんでね」
 すねたような口ぶりで言う彼女に、キドニーが苦笑まじりに答える。ジャック・ダニエル。彼が飲むウィスキーはもっぱらこれだ。テネシー・ウィスキーの味は彼女のお気に召さなかったらしい。
「キドニー。あんまり飲ませないでやってくれ」
「なによ。義兄さんと違って、宇野さんは優しいんだから。ほら、これくれたのよ」
 ねぇ、宇野さん。そう言って、わざとらしくキドニーの腕にすがるように躰をすり寄せ、その肩へと頬を乗せる。私へのあてつけのようなその姿に、苛立ちがつのる。
「くれたんじゃなくて、奪ったんだろうが。だいたい俺の店に来て散々飲んで行ってるのはどこの誰だ。客だとは言わせんぞ」
「あら、たった一人の義理の妹にそんな冷たいことを言うのね」
 キドニーの右腕に腕を絡ませたまま、ちらりと上目遣いで私の顔を見上げたその表情に、一瞬甘えるような色が走ったと思ったのは私の目の錯覚か。義理の妹―――なんて空々しい響きの言葉だろう。そんな内心の感情が私の顔に出たのか。そんな顔しないでよ。ぷいと横を向いた美津子は、不意にグラスの中の酒を一息に呷った。たん。コースターもなくカウンターに戻されたグラスは、乾いた音をたてた。中身はすっかり空になっている。
「馬鹿―――おまえ」
 限界量は既に超えているはずだ。それでバーボンをストレートで呷る女に、私が慌てて肩に手をかけると「なぁによ―――」とうるさそうに手を振り払う。大丈夫だったら。いちいちそんなに心配しないでよ。あたしだって子どもじゃないんだから。そう言いながらも、既に言葉がさっきより呂律が怪しくなっている。見れば目蓋も重くなってきて、今にも沈没寸前といった様子だ。
「今、新司が迎えに来る。おまえ、もう家に帰れ」
「ふん―――あの人、今日はもう家に帰ってるのね―――早いじゃない」
 珍しいこと。吐き捨てるような口調。いつからこの女はこんな飲み方をするようになったのか。私が以前勤めていた会社にいた頃はそうではなかったはずだ。―――私の裁判の傍聴席で弟と並んで座っているのを見た日。弟の手が美津子の手につながれていることに気付いた時の、軽い失望。あれからたいした時間が経ったとも思えないのに、彼女だけがすっかり姿を変えている。
「――――おっと」
 突然美津子がバランスを崩し、スツールから滑り落ちそうになるのを、キドニーが慌てて抱き止める。左手はまだキドニーの右腕にゆるく絡んだままだ。見れば、すっかり目が閉じてしまっている。やれやれ、ようやく潰れたか。溜息をついたところで「起きてるわよ―――」とぼんやりとした声が返ってきた。
「いい加減に寝ておけ。新司が来たら起こしてやる」
「いやよ―――寝ないんだから」
 まだ飲むのよ。幼い子どもが駄々をこねてむずかるように、美津子は首をふる。そのたびに髪が揺れた。私は溜息をついて―――不意に今朝の夢を思い出した。
「なぁ、美津子。こんな場合、おまえはどうする?」
 丘の上に立って街を見下ろしていると、火事が起きている。燃えているうちの一軒は新司の家だ。火はどんどん燃え広がって、丘の上の方まで来ようとしている。丘の反対側へは俺の家がある。おまえはどちらに向かう―――?
 かろうじて目が開いているという程度のぼんやりとした彼女にどの程度理解できたのか。そんな疑問を覚えながらも、私は言葉を続けた。いったい私は何が訊きたいのか、それすらも明確ではないままに。グラスに移ったのだろう、口紅の赤が剥げた女の唇は、少し色褪せて見えた。それが逆に生々しい。その唇がゆっくりと開く。

「決まってるでしょ―――街に、家の方よ」

 どこかでその言葉を予想していながらも、どこかでちくりと棘のような痛みを覚えたのも事実だった。目の前で酩酊している黒い服の女が、夢の中の白い服の女と重なった。貴方の家があるから、そちらへは行きたくないの。夢の中の、化粧をしていないような白い顔。残酷な言葉。―――けれど、美津子の次の言葉は、夢の中とは違った。

「ばぁか、ねぇ―――」
 だから男は駄目なのよ。燃えてるのは私の家なのよ。火ぃ、消さないといけないでしょ。―――だから―――男なんて―――。酔っ払い特有の語尾を伸ばした舌っ足らずな言葉はしかし、そこで途切れた。どうやら今度こそ寝てしまったようだ。すーすーという柔らかい音をたててカウンターに突っ伏して寝ている女を、私は苦笑しながら見遣った。
「男なんて、か」
 微かに苦笑を含んだような声で、キドニーが言う。思えばこの男も美津子に対しては複雑な感情を抱いている一人だ。間違いなく好意を抱いていながら、それでいておそらくは躰のことを気にしているのだろう、決してそれを伝えようとはしない。研究という口実で家庭を顧みない新司も含めて、私たち四人はいびつな四角形を成している。誰もがそれを口にしない―――けれど全員がそれを理解している、不自然な関係。

「兄さん」
 背後から声をかけられた。振りかえると、新司が立っていた。美津子はすっかりカウンターに突っ伏してしまっている。
「美津子、おい。新司が来たぞ」
「―――ん」
 半分うめくようにして、うるさそうに美津子が手で払うのを、重ねて肩を揺さぶる。ふと新司はと振りかえると、じっとこちらを見ていた―――その視線の先には、キドニーに絡んだままの美津子の左腕がある。それに気付いたのか、少し気まずげにキドニーがそっとその手を離した。
「ほら、起きろ」
 何度も揺すぶっているうちに、ようやくうっすらと美津子が目を開けた。とろんとした目で今にもまたカウンターに沈みそうな状態に、そうはさせまいと新司を呼ぶ。
「ほら―――新司、手を貸せ」
「あ、ああ」
 どこかぼんやりしていた新司は、私がかけた声で目が覚めたかのように、慌てて美津子の躰を受け取るように近づいてきた。眠り込んだ女の躰は、力が抜けてぐったりとしていて、案外に重い。
「一人で大丈夫か」
「ああ、それは―――それより美津子が飲んだ分の代金は」
 どこかおずおずとした口ぶりなのは、普段から自分が留守の間にここに美津子が入り浸っていることを十分承知しているからなのだろう。美津子が金を払わずにここで飲んでいくことは、今に始まったことではない。
「別に構わんさ。こいつ一人の飲み代で潰れるような店でもなし、これでもたった一人の義理の妹だしな」
 美津子が言ったとおりの言葉で返してやると、「そうか―――すまない」と言って新司は目を伏せた。いつもこいつはそうだ。私が事件を起こして以来、決してまともに視線を合わせようとしない。うつむいたその顔に、今はもう亡くなった母の顔が重なって、私はそれを振り払うように「気にするな」とだけ乱暴に言った。

「―――じゃあ、連れて帰るから」
「ああ―――最近少し飲み過ぎじゃないのか。気をつけてやれ」
 そう言葉をかけると、新司は気弱げに「あまり強くも言えなくて―――」と困ったように笑った。どうしていいかわからなくなると、表情に困って作ったような笑顔を浮かべるのは昔から弟の癖だ。自分が仕事で家を空けているという自覚はあるのだろう。けれど、それ以上は新司と美津子の間の問題だ。兄に過ぎない私にそれ以上の口が挟めるわけもなく、私もただ「そうか」という言葉を返すしかなかった。
 背にまわした新司の腕が、今にも崩れそうな美津子の躰を支えている。二人がそうやって店から出て行くのをただ見送っていると、キドニーが「さっきの話、どこかで聞いたことあるような気がするな」と言った。新司と私が話している間に、お代わりをバーテンに出させたのだろう、新しいショットグラスを手にしている。
「ああ、おまえも読んだことあるかもしれないな」
 そう言って書名を言うと、「ああ、それなら知ってる。随分昔に読んだ」と言って、キドニーはグラスを口元に運んだ。その話の主題は、女が火の中へ歩いていくことではなく、目を覚ました男がそんな夢を見たこと―――彼女の愛情が自分にはないことを既に自分は信じてしまっているのだと気付いて悲しむところにある。けれど美津子が言うように、火の中に歩いて行く女にそんな意味付けをする男に比べて、女というものは余程リアリストなのかもしれなかった。
「女は現実的だな」
「そうだな」
「現実的な女に比べて、男は馬鹿だというわけだ」
 泥酔した美津子の言葉をなぞって苦笑すると、同じように口元に苦笑を刻みかけたキドニーが不意にグラスをカウンターに置いた。
「おい、もう帰るのか」
「ああ、明日の法廷の件で思い出した。もう一度事務所に戻る」
「そうか。遅くまでご苦労なことだな」
「自営業の悲しさでね」
「それはお互い様だ」

 キドニーが立ちあがるのに気付いて、内田がキャッシャーへと向かう。客をあまり待たせないようにという私の方針をきちんと守っているようだ。
「―――確かに男は馬鹿なのかもしれんな」
 私の背後でそう低く呟いたキドニーの声に振りかえると、すでに出口に向かってさっさと歩き出したあとだった。その声がさっきまでに比べて沈んでいたような気がしたが、かといって引き止めて何を聞けばいいのか判らず、ただ見送るしかなかった。
 ふとカウンターに目を戻すと、美津子が使っていたグラスがそのままになっている。カウンターの辺りで揉めていたせいでバーテンが下げ忘れたのか。そのグラスの縁に、かすかに赤い口紅のあとが残っているのを見て、私は意味もないいらだちを覚えた。
「おい。グラスはすぐに下げろ」
 乱暴な口調で告げると、バーテンが慌てたように飛んできて、謝りながらグラスを下げた。半分八つ当たりだと自覚しながらも、いらだちはおさまらなかった。
「もうお帰りですか」
 私の顔色を伺うようにバーテンが言うのも、なにもかもが気に入らなかった。不意に最近見つけたバーテンのことを思い出した。彼ならこんな場合も無表情に自分の仕事をこなすだろう。帰りに寄ってみようか。あの店でほとんど無駄口を利かないバーテンを相手に飲んでみれば、少しは気分も変わるかもしれない。
 乱暴にスツールを引きながら、私はどうしようもないいらだちを覚えていた。理由も定かでないまま、こんな夜もあるのかもしれないと思いながら店を出る。ちょうど外は小雨が降り始めたところらしい。顔に降りかかる雨を逆に心地よく思いながら、私は車へと足を向けた。

【Fin】


元ネタは川端康成の『掌の小説』の一編、「火に行く彼女」です。
高校時代に模試の問題で読んだ時から、私はこの短編が妙に好きなのでした。
先日、久々にめくっていてこれなら美津子の話かなぁと思いついたもの。
1巻の直前くらいと思っていただければ。

美津子はBDの一冊限りで死んでしまうヒロインたちの中では割と好きな方でしょうか。
しかしついに坂井が出てこないところまでさかのぼってしまいました…せっかく坂井ばかりの本を出してもらったところなのに…(笑)
多分この頃は、刑務所に入ったばかりで苦労していた時期でしょうか…頑張れよ坂井(と激励してみたり)。


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